
私たち日本人は古くから自然を篤く信仰と畏怖の対象としてきました。自然科学の発達によってその正体が暴かれるまで、「神秘」は神や精霊の専有物だったのです。天地開闢(かいびゃく)のような大掛かりなものだけではありません。火が燃え風が吹き、花が咲き子を身篭るのにも、神や精霊の御業を見出していました。
そんな「神秘」の一つに、山や谷に反響する声がありました。山の頂上で「やっほー!」と言えば答えてくれるアレです。その正体は木霊(こだま)という精霊、または山彦(やまびこ)という妖怪であると考えられました。
面白いことに、「神秘」を神や精霊の所為にすることは古来より世界共通の作法でした。というよりも、そのために生み出されたものが神と精霊だったのかも知れません。未知に満ちた自然界で正気を保つための人間の知恵だったのでしょう。みちみちって語感良いですね。
そんな海の向こうの世界では、火や風と同じように、木霊にもとある人格が与えられました。それが森のニンフ(妖精)「エコー」です。
紀元前1世紀にローマで生まれた詩人オウィディウスは『変身物語』において、彼女と美少年ナルキッソスとの悲劇を描いています。今回は『変身物語』の中で最も人気の高い物語の一つである『ナルキッソスとエコー』より、そのあらすじと、エコーとナルキッソスの最期をご紹介しようと思います。
『ナルキッソスとエコー』
美少年ナルキッソス
ある時、青い水に住む美しいニンフの一人レイリオペは、河神ケピソスにうねった流れの中で乱暴され子を宿しました。やがて生まれた男の子はナルキッソスと名付けられ、ニンフたちに愛されながら育ちます。我が子の将来を案じたレイリオペは、預言者テイレシアスに「ナルキッソスが長生きできるか」を尋ねました。
テイレシアスは女神ユノーによって視力を奪われ、主神ユピテルによって未来を予知する力を与えられた男です。彼は答えました。「自らを知らないでいればな」と。
- ユピテル:ローマ神話の主神。ユノーの夫で浮気性
- ユノー:ローマ神話最高位の女神。聡く嫉妬深い
時が経ち、16歳を迎えたナルキッソスは類稀な美貌の持ち主となっていました。多くの若者が男女の別なく彼に言い寄りましたが、非情な思い上がりを秘めたナルキッソスは、誰も彼もを突き放し相手にしませんでした。
おしゃべりな妖精
いつものように、ユピテルは山のニンフたちと浮気をしていました。夫の不貞に勘付いたユノーがその現場を押さえようとすると、これまたいつも、話好きな美しい妖精エコーの長いおしゃべりによって、その場に引き留められるのでした。
エコーはおしゃべりの間で山のニンフたちを逃がしていたのです。しかし、エコーが自分を欺いていることに気付いたユノーは、彼女に罰を与えました。「自分からは決して話しかけられず、相手の言葉の最後をただ繰り返すだけ」しかできないようにしたのです。
大好きなおしゃべりが出来なくなったエコーは悲しみに暮れ、森に身を隠してしまいました。
エコーの叶わぬ恋
エコーはある時、鹿狩りへと森にやってきたナルキッソスを見つけます。途端に恋の炎を燃え滾らせた彼女は、こっそりと彼の後を追いました。すると、仲間とはぐれたナルキッソスがふと声を発します。「誰かいないのかい?」
ようやく声を掛けられると喜んだエコーは、彼の問いを繰り返しました。そして、呼び掛け続けるナルキッソスの「ここで会おうよ」の声に答え、ついに彼女は姿を現し、そのまま彼の頸(くび)に手を回したのです。
途端にナルキッソスは逃げ出しました。その上「手を離すのだ!」と叫び「そんなことをされるくらいなら死んだ方がましだ」と言い放ちました。
彼にはねつけられたエコーは、さみしい洞窟で独り暮らすようになります。それでもナルキッソスへの恋慕は衰えず、眠れぬ夜のために次第とその身は痩せ細っていくのでした。やがてその体が失われるまで。
以来、森に隠れていて、山にはその姿が見られない。ただ、声だけがみんなの耳にとどいている。彼女のなかで生き残っているのは、声のひびきだけなのだ。
2009年 岩波書店 オウィディウス 中村善也訳 『変身物語』(上) P116
罪深い美少年の最期
ナルキッソスが拒んだのはエコーだけではありません。町の男女はもちろん、水や山のニンフたちの求愛も悉く退けました。そんな中、恋心を踏みにじられた青年が祈った「あの少年も決して叶わない恋を知るように」という願いを、復讐の女神(ネメシス)が聞き入れます。
ある日、澄み切った泉を訪れたナルキッソスは、水面に映った少年の姿に呆然としました。あまりにも美しいその少年に、恋をしてしまったのです。もちろん、その少年は彼自身でした。
それからというもの、食べることも寝ることも忘れた彼が、その泉から離れることはありませんでした。しかし、ナルキッソスもやがて気が付くのです。恋焦がれるその相手が、自分自身であると。
決して叶わぬ恋を悟ったナルキッソスは、悲しみのあまりに力尽きていきました。そんな彼の姿を、声だけになったエコーが見届けます。彼の最後の言葉「さようなら」に、「さようなら」と答えながら。
ナルキッソスの姉妹である水のニンフたちは、彼のために髪を切って供えました。そして、用意した棺に彼の亡骸を納めようと見ると、彼の体はすっかり消えていたのでした。
そのかわりに、白い花びらにまわりをとりまかれた、黄色い水仙の花が見つかった。
2009年 岩波書店 オウィディウス 中村善也訳 『変身物語』(上) P121
水仙と自己愛と木霊
この記事のアイキャッチ(先頭の画像)を見てください。少し見にくいですが、これが水仙の花です。水仙の学名「Narcissus」はナルキッソスの伝承に由来しています。そしてタイトルにある通り、「自己への陶酔、執着、偏愛」を表す「ナルシシズム」の語源もこの伝承にあるのです。日本では「ナルシズム」とも言われますね。
近頃は、僅かでも自己愛の気を見せると「このナルシスト野郎め!」と罵られる節がありますが、ちょっと鏡と睨めっこするくらい、ナルキッソスと比べてしまえば、大したことないと思えるのではないでしょうか。
同じように、「木霊、反響、残響」を意味する単語「エコー(echo)」もこの物語に由来しています。私たちが口にする「やっほー!」の呼び掛けで、孤独なエコーの寂しさが和らいでくれたら嬉しいですね。
最後に
最後までご覧いただきありがとうございます。以上、ロマンチックで悲しい『ナルキッソスとエコー』の物語でした。楽しんでいただけましたでしょうか。
ここで学んだあらすじを長々と語る機会はそうないかも知れませんが、エコー(木霊)やナルシシズムの語源はきっと良い話の種になるのではないかと思います。
『変身物語』はギリシア・ローマ神話の登場人物を扱った叙事詩形式の変身譚を250編も収めた一大集成です。重要な神話原典の一つに数えられ、シェイクスピアやその他多くの文学作品に多大な影響を与えたことで知られています。
今回は岩波文庫より刊行されている日本語散文訳書を参照致しましたが、記事内のあらすじではあえてその洗練された語り口のご紹介を控えさせていただきました。ギリシア・ローマの神々、ラテン文学などに関心をお持ちの方は、是非ともご自身の目でお楽しみいただければと思います。
P.S.『変身物語』に収められた作品の一つ『ピュグマリオン』についての記事も是非ご覧ください!