
現代、私たちの趣味は多様です。読書、映画鑑賞、美術館巡り、旅行、ランニング、スポーツにアウトドア、アニメや漫画、それにゲーム。特に、ここ数年で急速に市民権を獲得した娯楽として「動画投稿サイト」の視聴なども、多くの方にとって趣味とも呼べるほど身近なものとなっているのではないでしょうか。夜寝る前とかついつい見ちゃうよね。
動画サイトでどんな動画を見るのか、それは言わずもがな人によりけりですが、多くの関心を集める動画のカテゴリがいくつか存在しているというのは、皆さんもご存知のことかと思います。その一つが「料理」です。料理動画は、料理を趣味とする私のような者はもちろん、そうでない方々にも常にある程度の支持を受けているようで、ほぼ毎日ランキングのどこかしらに顔を覗かせています。
お手軽な料理の代表として知られる「チャーハン」や「ペペロンチーノ」などの動画はとりわけ本数も多いので、きっと皆さんも一度くらいはご覧になられたことがあるのではないでしょうか。そんなとき、動画と合わせてコメント欄などに目を通したことがある方は、ふとこんなことを思ったはずです。
「どうしてこの動画、こんなに荒れてるんだろう...」
今回は、私のなけなしの知識と好奇心に任せて、この「料理動画あるある」の不思議に答えを見つけたいと思います。皆さん、キーワードは「自転車置き場の色」ですよ!
中華は荒れる、フレンチは荒れない
毎日のように料理動画を見ていると、とある傾向に気が付きます。どうやら「手軽な料理の動画」ほど荒れているようだ、ということです。その代表が「チャーハン」。「ペペロンチーノ」や「玉子焼き」がそれに続きます。ですが、そもそも料理自体が身近なものなので、ほとんどの料理動画が少なからずの批判コメントに晒されているのは仕方のないことではあります。
しかし、本格的なフレンチの動画はどうもこれに当てはまらないようなのです。もちろん、私たちの親しみ方の違いもありますが、例え料理カテゴリで人気を博しているものであろうと、フレンチの動画は中華やパスタ、家庭料理の動画のように荒れたりはしないのです。
フランス在住の日本人でプロの料理人として活躍されている動画投稿者がいます。彼の動画は洗練されているため、そういった意味で批判の余地があまりないのも事実なのですが、それを考慮しても、日間ランキングに載るまで人気の彼の動画には不思議なほど調理に関する批判や指摘がありません。おそらく、これは「フレンチがあまり身近(手軽)でない」ことに起因しています。
いやいや、もしかしなくても大衆が権威(プロという肩書き)に弱いだけなのではないか、そう考えることもできます。ところが「チャーハン」の場合は、有名店の料理人が調理する様子を収めた動画であっても、細かい指摘や的外れな批判が見られるのです。つまり、大衆は料理人の質よりも料理の種類によって「批判の機会」を得ている、そう考えるのが自然なことのように思えます。
では、なぜ「手軽な料理の動画」ほど「批判の機会」が多いのでしょう。もちろん、その答えは「私たちがそれを理解できる、知っている」からです。そして、「大衆に理解できる物事は多くの意見を生む」という理屈に至ります。これに代表される法則が「パーキンソンの凡俗法則」、その例えとして用いられる言葉が「自転車置き場の色」なのです。
「自転車置き場の色」の議論
「パーキンソンの凡俗法則」は、1957年にこの経験則を発表したシリル・ノースコート・パーキンソンが、その翌年に著した経営書から、とある例をもって説明されています。
それは原子力発電所の建設計画会議でのこと。多くの参加者がいるにもかかわらず、原子炉設計についての議論に加わる者は限られています。それは原子炉の仕組みが複雑で理解し難いものだからです。ところが、発電所に設置する予定の自転車置き場の素材などに話が及ぶと、一転して誰も彼もが口を挟むようになるのです。パーキンソンの例では自転車置き場の「色」について触れられていませんが「自転車置き場の色」の話として知られています。
パーキンソンはその著書の中で、それら議題の予算に着目し「議題の一項目の審議に要する時間は、その項目についての支出の額に反比例する」という法則を導いています。ここで重要なのは、予算が莫大なものほど「より難解である」ということです。
この法則は1999年、オープンソースのUNIX系OSとして大規模サーバなどに採用されているFreeBSDの開発コミュニティにおいて、単純なコマンドの拡張についての議論があまりにも長引いていることに業を煮やしたとある開発者が、「これこそ典型的な『自転車置き場の議論』だ」と引き合いに出したことで再注目されました。以来「自転車置き場の議論」としても知られています。
そうして現在では、ネットを含むあらゆるコミュニティでの些末な議論や諍いが無意味に継続する状況を揶揄する言葉として、またはそれらに白熱する者たちを鎮める天啓としての役目を与えられているようです。
今回この例を紹介したのは、「自転車置き場の議論」においてその先駆けとなる人物と、「チャーハン」の動画に不必要に批判的なコメントを寄せる人物とに、どうも似通った点があるように思えたからです。それは、その行動が「ある欲求」に依拠するものだということ。そしてその欲求が、心理学者アブラハム・マズローの説く「承認欲求」だということです。他者に認められるための虚像を描くので「自己顕示欲」とは少し違うね!
「口を出すこと」は悪なのか
21世紀に入り、自己表現の場は確実に拡大しています。その功労者は間違いなくソーシャルメディアです。ソーシャルメディアは、利用する人々に自己表現の手段を与えると同時に、他人の自己表現に「口を出す」機会をも与えています。果たして、その機会を活用することは悪いことなのでしょうか。
近頃は「マウンティング」という言葉も流布していますが、人間とは生来、他者よりも優位にありたいものです。それは自己防衛の本能かも知れませんし、もっと高度で知的な謀略の類かも知れません。その根底にあるのは、心理学者アドラーの言う「優越へのコンプレックス」でしょうか。ともかく、そうして嵩にかかった物言いに悦びを見出すのは、特別に偏執なことではないのです。
多くの人が親しむからこそ「チャーハン」の動画は荒れます。知っていることを証明する自己表現の一環として、他者の自己表現に一言添える、妥当な行為です。そこに悪意があれば罰するに値するかも知れませんが、ほとんどの方はそのようなつまらないものに惑わされてはいないはず、単に「言いたいから言っている」に過ぎません。
そういった振る舞いが当たり前だからこそ、それを慎む紳士然とした態度に少なくとも私は魅力を感じるのです。「チャーハン」の動画でも、「自転車置き場の色」でも、友人の恋人への愚痴でも、芸能人のスキャンダルでも、それは変わりません。不必要な場面では口を噤む、そうすることで守られる信頼や発言力もあるのです。
話を戻しましょう。「口を出すこと」は悪なのか。いいえ、私は悪だとは思いません。ですが、不必要に発言するのは最善でないと思います。それに、どうせ自己表現するならば、他者の批判でなく、自分の好きなことを発信した方が素敵だとは思いませんか?
なんて、もっともらしい御託を並べてはいますが、ただただ私は一視聴者として「料理動画は楽しく見たい」、そう願っているのです。
最後に
最後までご覧いただきありがとうございます。自明のことをさも目新しいことのように紹介している恥ずかしい奴だ、と思われた方も多いかも知れませんが、少しでも皆さんの思考を鮮明にする助力となれば幸いです。
「批判よりハッピーなこと発信しようぜ」などと批判じみた記事で発信しては説得力に欠けると思いますが、可能な限り多くの方が平穏なネト充生活を謳歌できるよう、そのための布石として拙文を綴らせていただきました。どうかご容赦ください。
ちなみに、私は「チャーハン」にも「ペペロンチーノ」にも「玉子焼き」にも大好きなツナ缶を投入します。好きなものを好きなように調理する、それが料理の醍醐味ですからね。そして、料理をすればわかることもあります。その大変さです。私は主婦(主夫)と料理人の方々を応援しています!ふぁいと!