「ブス」の語源を知ると、顔より大切なことが見える【withサルトル】
 この記事は近々リライト予定です。それまでは、文字だらけの少々味気ない記事のままですが、良ければぜひご覧になってください。

悲しいことに、人は誰しも、自分の外見に少なからずの不満があるものです。もしも「生まれてこの方、外見に悩んだことがない」という方がいらっしゃいましたら、それはとても恵まれたことなのだと自覚してください(泣)。とはいえ、やはり多くの方は自身の美的問題、特に「顔」についての悩みを抱えているはずです。容姿の問題に踏み込むのはデリカシーに欠けるようで気が引けるのですが、今回は、そんな悩みを抱える皆さんの心労を少しでも解消して、その素敵な繊細さがこれ以上皆さん自身を苦しめなくて済むように、言葉の世界から「美しさ」に「ある一つの答え」を見つけたいと思います。

※この記事では「容姿の良し悪し」に言及する際は、不自然でない限り「器量」という言葉を使いたいと思います。「器量の良いお嫁さん」なんて使われ方が一般的ですが、その意味は「顔立ち・能力」です。

器量の良くないことをなんて言う?

「器量の悪さ」を表す言葉で、特にTVや雑誌などで目にする機会が多いのが「ブサイク」です。皆さんご存知の通り、「不細工」と書きますね。これは本来、その文字通り、工芸品などの細工が良くないことを指していました。言葉狩りのようなことはしたくないのですが、言葉本来の意義を鑑みれば、この表現が人の容姿に言及する際に用いられることに、(あくまで個人的にですが)少なからずの忌避感があります。

工芸品は完成したらお終いです。ころころ見た目が変わることはありません。ですが、私たちは違います。なにしろ、表情一つで魅力的な顔になれるのですから。言うなれば「永遠の未完成品」です。ディ〇ニーランドと同じですね(?)。もちろん、ある一場面を切り取って、「ブサイク」だと言うことはできるでしょう。しかし、人間が心身共に多面的な生き物であることを考慮すれば、どのような場面においても、その細工の是非を評価するのは健全でないように思えます。私見ですが、さまざまな表情をもつ人間に、「ブサイク」という言葉は不穏当だと思うのです……

では「ブス」はどうでしょうか?あまり見慣れませんが、漢字では「附子」と書きます。実はこれ、猛毒として知られる「トリカブトの根」のことなんです!「ブシ」とも読んで、弱毒化したものが漢方として用いられています(た、たくましいなぁ)。効用には、強心作用や鎮痛作用があるのだそうです。それでは、なぜ「トリカブトの根」が「器量の悪さ」を指すようになったのでしょうか?答えはその中毒症状にありました。

ブスは「無表情な人」を指していた!

「附子」、つまりトリカブトには「アコニチン系アルカロイド」が含まれているのですが、その代表的な中毒症状が「麻痺」なのだそうです。場合によっては「顔面神経麻痺」を引き起こすようで、このことから、トリカブトの毒によって表情を失った顔を「附子」「ブス」とも呼ぶようになったのだといいます。どうやら、『四谷怪談』の「お岩さん」に盛られた毒もトリカブトだったのではないか、と考えられているそうですよ。(トリカブトについては「厚生労働省のページ」を見てみるといいよ!)

「ブス」という言葉にも忌避感はありますが、「無表情」から発展して「器量の悪さ」を指すようになったという経緯は、理解に難くありません。「ブサイク」の件でも書きましたが、表情というのは人間の最大の魅力です。豊かな表情筋をもって生まれることは、とても幸福なことです。他の動物たちは、私たちほど表情によって巧みに意思を伝達することができません。そのためでしょうか、私たちは自然と、表情の豊かな人に心惹かれてしまうものなのです。特に、いつも朗らかな表情を湛えている人には、誰もがつい胸襟を開いてしまいます。同じ理屈で、いつも無表情な人に愛着を抱くのは、とても難しいことなのです。

「ブス」の本来の意義が「無表情」であり、「無表情」であることが「器量の悪さ」の一つの指標なのだとすると、これは興味深いことかもしれません。ヴィクトリア朝時代の小説家、チャールズ・ディケンズによれば、「朗らかさと満足感は人を美しく見せ若々しい外見を保たせる、よく知られた特効薬であり、それは間違いのないことである」のだそうです。「無表情」が「ブス」の指標であるように、「朗らかで満たされた表情」もまた「美しさ」の指標なのだとすると、これは、「どのような人も心持ち次第、表情次第で美しくあれる!」ということなのではないでしょうか。

人間は自らの行動の中で自らを定義する

(哲学に興味がない人は「スキップ」してOKです!)今回の内容に関連して、20世紀フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルの思想にも触れてみましょう。彼は、自らの意思でノーベル賞を拒否した最初の人物です。そして、(こっちが重要!)現代において「実存主義」哲学の旗手として活躍した人物でもあります。実存主義は、「人間の主体性」をキーコンセプトとしていて、よくよく「実存は本質に先立つ」というサルトルの言葉で端的に表されますが、ここにも容姿に囚われない思考のエッセンスがあるのです。

人間というものは、あらかじめ「人間としての重要な性質(本質)」を(誰かしらから)与えられて「現実的な存在としての人間(実存)」として生きているわけではありません。器量の良し悪しのような「生まれもった性質」はまったく取るに足らないことで、自由な選択によって自らの意思で獲得した性質こそが、私たちが何者かを規定する「本質」です。サルトルの実存主義によれば、私たちは、人間としての本質をもたないまま無力にも「存在すること」を強制された存在であり、しかし、だからこそ「何者にでもなれる」のだといいます。つまり、「人間は自らの行動の中で自らを定義する」存在なのです。

サルトルのいう「自由」は私たちが考えるほど穏やかなものではありません。曰く、私たちは、あらゆる選択に責任があります。どこまでも自由であるがゆえに、その選択に伴う責任を誰も肩代わりしてくれないためです。この責任は、私たち自身についてのみならず、私たちが生きる社会に対しても負います。なぜなら、「行動すること」と同じように「行動しないこと」も私たちの自由な選択であって、社会の在り方を変えるための活動に参加できるにも拘らず、それに参加しないのもまた私たち自身の選択だからです。

これは、もちろん「私たち自身の在り方」にも言えることです。たとえば、私が心無い人に「ブス」と言われたまま「無表情」であることを改めないのであれば、それは私自身の選択で、私自身の責任だということです。辛辣(泣)。サルトルは、この我々に強いられた自由と責任を「人間は自由の刑に処されている」という言葉で表現しています。「何者にでもなれる」からこそ、そのための努力を怠った結果にも責任が伴うのですね。厳しいようですが、「人間は自らの行動の中で自らを定義する」ということ、どうか心に留めておいてください。

最後に:豊かな表情は魅力的です

世の中には「美人」や「イケメン」と呼ばれる人たちがいます。これは事実です。ですが、だからといって、そうでない人々が貶められる道理はありません。それに、そんな人たちのために気分を曇らせ、表情を曇らせ、わざわざ「器量の悪い」ままでいてあげる必要もないのです!もちろん、外見の整った人たちは、多くたゆまぬ努力でそれを維持しているものです。「自分は器量が良くないから……」と考えてしまうなら、まずは彼らに倣って、「前向きな気持ち」を見つけることから始めてみましょう!

大丈夫!豊かな表情こそが、なによりの魅力なのです。もしも、自分の思いを表情で表現することに不慣れならば、眉を動かす程度からでも練習してみてください。いざ実践してみて、相手を戸惑わせてしまったとしても、それは単にその人があなたの表情に「見慣れていない」だけです。続けていけば、その努力が、今あるものだけでなく、新たな人間関係をもより良いものへと変えてくれることでしょう。

最後までご覧いただきありがとうございます。「表情の豊かさもまた美しさなのだ!」というお話でした。こう聞くと、別になんてことないお話でしたね。ですが、「当たり前」を再認識することが重要なのです。信じてください!笑。今回取り上げたもの以外でも、悲しい言葉というものには、秘められた「本来の意味」にこそ、その悲しみを乗り越えるためのヒントが隠されているかもしれません。デリケートな問題ですが、どうか皆さんが少しでも明るく楽しく、朗らかな気持ちで毎日を過ごせますように。(人)

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